兼近大樹さんといえば、明るくチャラいキャラクターの裏に芯の強さを持つ人気芸人。
兼近さんの実家は札幌市北区にあり、母親が女手一つで育て上げた壮絶な家庭環境でした。
父母の離婚や極貧生活、そして新聞配達や建設業を掛け持ちして家族を支えた少年時代。
兄弟たちも個性豊かで、ラーメン店経営やIT業界など多方面で活躍しています。
この記事では、兼近大樹さんの実家の場所・家族構成・両親の人物像・幼少期のエピソードまで丁寧にまとめています。
ゆかり読み終えるころには、兼近さんの優しさや価値観の源がきっと見えてくるはずですよ。
- 兼近大樹の実家は札幌市北区にある
- 父親と母親の離婚後の家族構成
- 母が3人の子どもを育てた背景
- 幼少期の貧困エピソードと夢の変化
兼近大樹の実家は札幌市北区|家の場所と暮らしの特徴
兼近大樹さんの生まれ育った環境について、まずは「実家の場所」と「どんな家だったのか」という視点から見ていきましょう。
彼の生い立ちを知るうえで、地元・札幌市北区という土地がどのような場所だったのか、そしてその暮らしぶりにどんな特徴があったのかをひもといていきますね。
実家は札幌市北区のどこ?地域の特徴と環境
兼近大樹さんの実家があるのは、北海道札幌市北区です。
北区は札幌市の中でも自然と市街地がバランスよく共存するエリアとして知られています。
実際に札幌市北区には大学や高校も多く、交通アクセスも整っている一方で、昔ながらの住宅地や下町的な雰囲気も残る地域が多いんですよ。
こうしたエリアは、近隣との距離感が近く、地域で支え合う空気も強くあるのが特徴です。
兼近さんはそんな北区の中で、裕福とはいえない家庭環境で育ちました。
それでも地域のあたたかさに支えられていた一面もあったのではないかと想像できますね。
出身小学校は札幌市立新琴似南小学校で実家は新川エリアにあったそうです。
次では、両親の離婚後に暮らしていた築80年の家について見ていきましょう。
離婚後に暮らした築80年の家と生活の実態
兼近さんが中学3年生のときに両親が離婚し、その後は母親と姉妹との4人暮らしが始まりました。
そのとき住んでいた家は、なんと築80年でネズミが出るというほどの古い家だったそうです。
冬の寒さが厳しい札幌での生活は、想像以上に過酷だったはずです。
それでも母親は明るく振る舞い、子どもたちの前では「大丈夫」と笑っていたといいます。
部屋の寒さや生活の不便さよりも、家族が一緒にいることが何よりの支えだった。
そんなあたたかさを感じさせるエピソードですよね。
次では、さらに深掘りして、札幌市北区で語られる貧困時代の具体的なエピソードを紹介していきますね。
北区で語られる貧困エピソードと当時の家庭状況
兼近さんの家庭は、いわゆる「貧困家庭」と表現されるほど、経済的に厳しい状況にありました。
特に印象的なのが、4人兄弟でポテトチップス1袋を分けて食べていたという話です。
中学生になって自分の稼ぎでポテチを1袋買ったとき、思わず4分の1だけ食べて3分の2を残してしまったというエピソードからも、当時の習慣と家庭の状況がよくわかりますよね。
中学生になって新聞配達を始めた兼近は、稼いだお金でポテトチップスを購入し、1人だけで丸々1袋を味わおうとしたが「全部食べようと思ったんですけど、4分の3残しました」と語った兼近。その理由を兼近は「食べられなかったんです。小っちゃいときから4分の1しか食べてないから」と付け加えていた。
引用元:ザテレビジョン
また、母親が作る「もやしフェスティバル」も、貧しさを工夫と明るさで乗り越えてきた象徴的な一品でした。
もやしをいろんな味付けで食卓に出し、家族全員で楽しんでいたという姿は、苦しい中にも温かさを感じさせます。



次では、そんな家族の全体像を把握するために、家族構成について詳しく見ていきましょう。
兼近大樹の家族構成|父母と兄弟4人の6人家族
兼近大樹さんが育った家族は、実は兄弟4人の大家族なんです。
ここでは、家族構成の全体像を整理しながら、両親の離婚による暮らしの変化を見ていきますね。
家族全体の構成まとめ(父・母・兄・姉・本人・妹)
兼近大樹さんは、両親と兄・姉・妹の6人家族で育ちました。
兄弟の中では次男にあたります。
上から順に、長男の祐輝さん、長女の綾乃さん、次男の兼近さん、そして次女の雪乃さん。
男女2人ずつという構成ですね。
両親の離婚前はこの6人で暮らしていましたが、離婚後は家族が分かれて生活するようになります。
この構成を踏まえることで、次のH3でも家族の変遷や役割の変化がよりわかりやすくなりますよ。
続いては、離婚後の暮らし方や家族間の役割分担について見ていきましょう。
両親の離婚後の家族の暮らし方と役割分担
兼近さんが中学3年生の時に両親が離婚し、それをきっかけに家族の生活は大きく変わりました。
兄の祐輝さんは父親と同居を選び、兼近さん・姉・妹の3人は母親に引き取られたんです。
母・照美さんは昼夜働き詰めの生活で、家計を一人で支えました。
そんな中、兼近さんは「父親代わりにならなきゃ」と自ら働き始め、新聞配達をはじめとした様々なアルバイトを掛け持ちしながら夜間高校に通っていたんですよ。
たぶん50種類くらいやったから、もう記憶が曖昧なんですけど、中学の時は新聞配達(※労働基準法第56条例外より)をやっていて、中学卒業後は、いろいろ掛け持ちしてました。ファミレス、コンビニ、焼肉屋、たい焼き屋、たこ焼き屋……飲食店はほぼやったと思います。あとは、テレアポ、カラオケ、パン工場、鮭の缶詰工場、車のネジを作る工場。バーテンダーやベビーシッターもやったし、やってないバイトが思いつかないっすね(笑)。
引用元:タウンワークマガジン
子どもながらに責任を背負い、家族を支えようとする姿勢が強く表れているエピソードです。
姉や妹との関係性も、お互いを支え合う絆があったからこそ成り立っていたのかもしれません。



次は兼近さんの家族それぞれの人物像を詳しく見ていきましょう!
兼近大樹の父親・母親・兄弟の人物像を詳しく解説
ここでは、兼近大樹さんのご家族それぞれがどんな人物なのかを、できる限り分かりやすくまとめていきます。
父・母・兄・姉・妹と、一人ひとりの背景や性格を知ることで、兼近さんの価値観や生き方がどこから来ているのか、より深く理解できますよ。
父・兼近勇治の経歴とリフォーム業のトラブル
父・兼近勇治さんは元社長でありながら、後にリフォーム工事をめぐる裁判トラブルを起こした人物として知られています。
勇治さんは過去に会社を経営し、後に倒産。
2020年頃には札幌で「石狩住建工房」というリフォーム業を営んでいました。
しかし、工事内容をめぐって顧客と揉め、見積書の“偽装疑惑”や全額支払いを迫った行為が報じられています。
さらに、EXITの知名度を示すような言動もあったとされ、メディアでも取り上げられました。
ただ、勇治さん自身は一部の発言を否定しており、事実関係には食い違いもあります。
家族仲は現在は良好で、親子で番組出演することもありますよ。
次では、対照的に家族を明るさで支えてきた母・照美さんについて見ていきますね。
母・照美の昼夜働き続けた生き方と「もやしフェスティバル」
母・照美さんは、兼近さんの人生にとって欠かせない存在なんですよ。
昼は工場、夜はスナックで働き続け、3人の子どもを支えた強い母です。
両親の離婚後、一家の生活は一気に苦しくなりました。
それでも照美さんは、子どもたちの前ではいつも明るく振る舞い、家のムードメーカーだったそうです。
特に象徴的なのが「もやしフェスティバル」。
経済的に厳しくても、もやしをいろんな味付けで工夫して食卓に並べ、家族みんなで楽しんだという温かなエピソードです。
兼近家の食事は、大量に茹でたもやしだけだった時もあるという。そんな時でも、「もやしフェスティバル」と名付け、いろんな調味料で味付けをし、みんなで明るくもやしを食べていたという。
引用元:ザテレビジョン
兼近さんはそんな母の姿を見て、働くことの強さや優しさを学んだと語っています。
次では、兄・祐輝さんの歩んできた道について触れていきますね。
兄・祐輝のバンド活動から実業家への転身
兄の祐輝さんは、兼近家の中でも異彩を放つ存在です。
元バンドマンであり、現在はラーメン店と不動産会社を経営する実業家です。
ヴィジュアル系バンド「ブラッズ」のギタリストとして活動していたころは、ファンから“王子”と呼ばれる人気ぶりでした。
その後は音楽の道から離れ、事業を立ち上げて成功しています。
家庭環境が厳しい中でも、自分の道を切り開いてきた強さを感じますね。
兄弟の中でも長男らしい責任感も見え隠れします。
次では、姉の綾乃さんについてお話ししていきます。
姉・綾乃のシングルマザーとしての生活
姉の綾乃さんは、シングルマザーとして子どもを育てている強い女性です。
仕事について詳しい情報は公開されていませんが、育児を一人で担いながら生活を支えていることが伝わっています。
綾乃さんも母・照美さん同様、家族を守るための強さを持っています。
兼近さんも「姉が頑張っている」と話すことがあり、兄妹の絆の深さを感じさせますね。
次では、家族の末っ子である妹・雪乃さんについて見ていきましょう。
妹・雪乃のIT業界での仕事と兄への感謝の言葉
妹の雪乃さんは、IT関係の仕事に就くキャリア女性です。
幼い頃、兼近さんから「感謝を忘れるな」「今の自分にできることを考えなさい」と言われて育ったそうで、その言葉を今でも大切にしているといいます。
貧しい環境の中でも、兄が自分たちを支えようと努力していた姿を見て、自然に「感謝」を学んだのかもしれませんね。
兄妹の関係はとても温かく、家族の絆の強さがよく伝わってくるエピソードです。



次では、兼近さんの幼少期や地元の学校、そして夢の変化について見ていきますね。
兼近大樹の地元の学校・幼少期の様子と夢の変化
ここでは、兼近大樹さんがどのような子ども時代を過ごし、どんな夢を持っていたのかに注目してみます。
野球に熱中していた時代から、家族の事情で夢を断念したエピソード、そして早くから働きに出た理由など、心の成長にもつながる背景をひもといていきますね。
中学時代は野球の強豪校からスカウトが来る実力
兼近さんは子どもの頃から野球少年で、特に中学時代は目立つ存在でした。
なんと、強豪高校からスポーツ推薦のスカウトが来るほどの実力者だったんです。
野球を通して努力する姿勢や、仲間と支え合う精神を学んできた彼ですが、ただの趣味ではなくプロ野球選手になる夢を本気で追っていたというから驚きですよね。
子どもながらに夢を持ち、そのために日々努力を重ねる真面目さが、後の兼近さんのキャラクター形成にもつながっていると感じられます。
しかしこの夢は、ある出来事をきっかけに断念することになります。
その背景について、次で詳しくお伝えしますね。
両親の離婚でプロ野球選手の夢を断念した
兼近さんが野球を諦めた理由は、両親の離婚による生活の激変でした。
中学3年生の時、両親が離婚し、母親に引き取られた彼は家計を支える必要性に迫られます。
経済的な事情から、スカウトを受けていた高校への進学は見送り、夢だったプロ野球選手の道も断念せざるを得ませんでした。
「夢をあきらめるのは努力が足りなかったから」と考えていた彼にとって、これはとても悔しい出来事だったといいます。
この経験が、後の自暴自棄や人生への不信感につながる一因になったとも語っています。
とはいえ、現実を受け止めて前に進んだ姿勢が、今の彼を支えているんですね。
次では、そんな彼がどのように「父親代わり」として働くようになったのかを見ていきましょう。
新聞配達・建設業を掛け持ちした「父親代わり」の青春
夢を諦めた兼近さんは、自分が家族を支える立場になろうと決意します。
中学卒業後は新聞配達や様々なアルバイトを掛け持ちしながら夜間の北海道札幌北高等学校定時制に通うという生活を選びました。
家族の中では唯一の男子として、自然と「父親代わり」になろうとしたんですね。
早朝に新聞を配り、日中はアルバイトで汗を流し、夜は学校へ。
この生活は、肉体的にも精神的にも過酷だったはずです。
結局、高校は2日で退学してしまったそうです。
それでも「お母さんってすげぇなって思った」という彼の言葉からは、尊敬や家族への愛情が伝わってきます。



こうした経験が、今の兼近さんの価値観や、人を思いやるスタンスに繋がっているんでしょうね。
兼近大樹の実家まとめ|母と兄弟に支えられた壮絶な育ち
兼近大樹さんの実家は札幌市北区にあり、両親の離婚や極貧生活といった厳しい環境の中で、母と兄弟と共に生き抜いてきたことがよくわかりましたね。
「家族構成」や「育ち」のエピソードには、兼近さんの芯の強さや優しさの原点が詰まっていたように感じます。
この記事のポイントをまとめます。
- 実家は札幌市北区の古い一軒家でネズミも出た
- 母は昼夜ダブルワークで3人の子を育てた
- 父は元社長でリフォーム業のトラブルも報道された
- 兄は元バンドマンでラーメン店と不動産を経営中
- 姉はシングルマザー、妹はIT系で働いている
- 中学時代は野球推薦の誘いも受けた実力派
- 生活のため夢を諦め、家族のために働いた青春時代
壮絶な過去を明るく笑いに変えながら、多くの人に希望を届ける兼近さん。



これからも家族との絆を胸に、ますます輝いていってほしいですね。
EXITでコンビを組むりんたろー。さんの実家についてもまとめましたので、合わせてご覧くださいね。











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