たくろう赤木裕の学歴!京都産業大学出身でNSCの評価4点からの大逆転劇

「M-1 2025」では決勝進出を果たし、挙動不審なキャラクターとおしゃれな衣装のギャップが魅力のたくろう赤木裕さん。
実は京都産業大学出身というしっかりとした学歴をお持ちですが、学生時代は波乱万丈だったようです。
高校時代の戦力外通告やNSCでの低評価など、意外な挫折経験が現在の面白さに繋がっているんですよね。
ゆかりこの記事を読めば、赤木さんの学歴と「大逆転」の人生ドラマがすべて分かりますよ。


【M-1 2025】決勝・準決勝進出者の実家・地元まとめ
実家が太いのは誰?親の職業は? 今年の決勝・準決勝進出者たちの「意外なルーツ」と「実家・家族」を徹底調査しました! ぜひチェックしてみてくださいね。


たくろう赤木裕の学歴まとめ
たくろう・赤木裕さんの学歴一覧は以下の通りです。
- 小学校:野洲市立野洲小学校(転出) → 大津市立平野小学校(卒業)
- 中学校:大津市立打出中学校
- 高校:光泉高等学校(現・光泉カトリック高等学校)
- 大学:京都産業大学
- 専門学校:NSC大阪校 37期
赤木さんは滋賀県大津市の出身で、高校生までは地元の滋賀県で過ごされています。
その後、京都の私立大学である京都産業大学へ進学し、卒業後にお笑いの世界(NSC)へ飛び込みました。
一見すると順風満帆な学生生活に見えますが、それぞれの時代で「今の赤木さん」を形成するような、強烈なエピソードをお持ちなんですよね。



まずは、ちょっぴり切ない(?)思い出も残る、小学校時代のエピソードから詳しく見ていきましょう。
たくろう赤木裕の出身小学校と幼少期のエピソード
出身小学校は野洲小学校から平野小学校へ転校
赤木裕さんの出身小学校は、滋賀県の野洲市立野洲小学校と、大津市立平野小学校です。
滋賀県大津市出身として知られる赤木さんですが、入学したのは野洲市にある「野洲(やす)小学校」でした。
その後、途中で大津市へ引っ越し、現在の実家があるエリアの「平野小学校」へ転校されています。
それぞれの学校の所在地は以下の通りです。
- 野洲市立野洲小学校:滋賀県野洲市小篠原1105
- 大津市立平野小学校:滋賀県大津市馬場1丁目1-1
同じ小学校出身の有名人を調査しましたが、公式に「平野小学校出身」と公表している方は見つかりませんでした。
ただ、中学校の先輩である俳優の林遣都さんは、学区の関係からこの平野小学校出身である可能性が高いと言われています。



さて、この小学校での「転校」が、赤木さんの人格形成に大きな影響を与えることになったんですよ。
転校初日の「赤いベスト事件」が人生を狂わせた?
赤木さんは転校初日、「赤いデニムベスト」を着て登校し、大恥をかいてしまったそうです。
これはご本人が「自身の人生を狂わせた要因の一つ」として語っている、切なくも面白いエピソードなんですよね。
転校前の学校が私服だったのか、あるいは「転校初日だからカッコつけたい」という意識があったのか、制服の上に自慢の赤いデニムベストを重ね着して登校した赤木少年。
しかし、クラスメイトの反応は冷ややかなものでした。
「カッコいい」と褒められるどころか、「ダッサ…」と陰口を叩かれてしまったのです。
この強烈な「スベり体験」がトラウマとなり、その後の性格に影を落としてしまったのかもしれませんね。



そんな傷心の赤木少年を癒やしてくれたのは、やはり「ゲーム」の存在でした。
厳格な家だけどゲーム好き!コントローラーの思い出
赤木さんは幼少期から生粋の「ゲームっ子」で、毎日友人とゲームに没頭していました。
実家はマンションだったそうですが、同じマンションに住む友人と毎日のように遊んでいたそうです。
当時、赤木家にはゲームのコントローラーが一つしかありませんでした。
それでも友人と遊びたくて、一つのコントローラーを二人で左右半分ずつ持って操作するという、涙ぐましい工夫をして遊んでいたんだとか。
その姿を見たお母様は「さすがに不憫だ」と感じたのでしょう。
その年のクリスマス、サンタさん名義で新しいコントローラーをプレゼントしてくれたそうです。
お母様の優しさが伝わる、なんともほっこりするエピソードですよね。



続いては、友人たちの溜まり場となり「遊園地」と呼ばれてしまった中学校時代のお話です。
たくろう赤木裕の出身中学校と「遊園地」実家エピソード
出身中学校は大津市立打出中学校で野球部に所属
赤木裕さんの出身中学校は、大津市立打出(うちで)中学校です。
学校の所在地や主な出身有名人は以下の通りです。
- 住所:滋賀県大津市本宮二丁目46番1号
- 主な卒業生:林遣都(俳優)、末成映薫(吉本新喜劇)、光井愛佳(元モーニング娘。)
俳優の林遣都さんや、吉本新喜劇のベテラン・末成映薫さんも卒業生なんですね。芸能人を多く輩出している学校と言えるかもしれません。
中学時代の赤木さんは野球部に所属し、部活動に励んでいました。
練習が終わると、仲間たちと実家で大人気野球ゲーム『実況パワフルプロ野球(パワプロ)』をするのが日課だったそうです。



しかし、あまりにも友人が集まりすぎた結果、ある「事件」が起きてしまいました。
実家が友人の溜まり場で母激怒?「遊園地」事件
赤木さんの実家は、友人たちの間で「遊園地」として語り継がれる伝説の場所となりました。
当時、赤木さんの家にはPlayStation 2やNINTENDO64といった人気ゲーム機が揃っていたため、自然と友人たちの「溜まり場」になっていたんです。
ある日、あまりの騒がしさに耐えかねたお母様が、「この家は遊園地じゃない!!」と激怒。
ごもっともな叱責なのですが、なぜか後日、友人たちの間では話がねじ曲がって伝わってしまいました。
「赤木のおかんが『この家は遊園地や!!』ってキレてたぞ」
ちなみに、この中学の時に僕ん家で自由に遊ばしすぎたせいでお母さんが、
「この家は遊園地じゃない!!」と友達の前で怒られてしまったのですが、
後日、赤木のお母さんが「この家は遊園地や!!」と怒ったという話になって、赤木のお母さんはいかれたエンターテイナーみたいな噂になって申し訳なかったです。引用元:ファニーマガジン
肯定と否定が逆転し、「自宅を遊園地だと言い張るイカれたエンターテイナーな母親」という誤解が広まってしまったそうです。



さて、中学卒業後はスポーツの強豪校へ進学。そこで赤木さんは大きな挫折を味わうことになります。
たくろう赤木裕の出身高校はスポーツ名門校で挫折を経験
出身高校は滋賀県の光泉カトリック高等学校
赤木裕さんの出身高校は、私立の光泉(こうせん)高等学校です。
現在は校名が変更され、「光泉カトリック高等学校」となっています。
滋賀県草津市にあるカトリック系のミッションスクールで、特にスポーツが盛んな学校として有名なんですよね。
同じ高校出身の有名人には、以下のようなアスリートの方々がいます。
- 横江豊(バスケットボール選手)
- 中東泰斗(バスケットボール選手)
- 北川弘(バスケットボール選手)
- 我孫子智美(棒高跳選手、ロンドン五輪代表)
バスケットボールやラグビーの強豪として知られていますが、赤木さんはここでも野球部に所属し、白球を追いかけていました。



しかし、高校3年生の時、赤木さんの野球人生を揺るがす非情な通告が待ち受けていたのです。
野球部で戦力外通告!マネージャー転向の屈辱
高校3年生の夏を目前に、監督から「戦力外通告」を受けてマネージャーへ転向させられました。
当時の赤木さんは、本気でプロ野球選手になることを夢見て練習に励んでいたそうです。
しかし、監督から告げられた理由はあまりにも残酷なものでした。
「野球が下手すぎるから」
この一言で選手としての道を絶たれ、最後の夏をマネージャーとして過ごすことになったのです。
ずっと追いかけてきた夢が理不尽な形で終わってしまい、当時の絶望感は計り知れません。



ただ、この悔しさが、のちの「芸人・赤木裕」を生むきっかけになりました。
「今に見てろよ」反骨精神がお笑い芸人への原点
「夢を絶たれた」という挫折が、赤木さんに強烈な反骨精神を芽生えさせました。
ご本人はこの出来事をきっかけに、「今に見てろよ!」「何かで一発逆転してやる」と強く思うようになったと語っています。
赤木 僕はずっと野球をしていました。でも、ヘタ過ぎるってことで、3年の時にマネージャーをさせられて、ドリンクを作ったりしてました。でも、それで反骨精神が芽生えたというか、「今に見てろよ!」と一発逆転を狙うきっかけになりました。
引用元:chFILES
野球では評価されなかったけれど、別のフィールドで見返してやる。
その「逆転の手段」として選んだのが、お笑いの世界だったわけですね。
あの時の監督の言葉がなければ、今の「たくろう」の漫才は見られなかったかもしれません。



高校卒業後、すぐにお笑いの道へは進まず、まずは大学へ進学。そこで意外な「大学デビュー」を果たします。
たくろう赤木裕の出身大学とNSC時代の評価4点エピソード
出身大学は京都産業大学!NSC大阪校37期へ
赤木裕さんの出身大学は、京都産業大学です。
入学式の直後に中学校時代の同級生である「ピコリ」さんと再会したことで、その後のキャンパスライフの方向性が決まったそうです。
大学卒業後は一般企業に就職せず、吉本興業の養成所であるNSC大阪校に37期生として入学しました。
NSCの同期には、以下の芸人さんたちがいます。
- 生ファラオ
- 京極風斗(9番街レトロ)
- ねんど(チェリー大作戦)
今をときめく実力派たちが揃う期だったんですね。



そんな赤木さんですが、大学時代はまさに「我が世の春」を謳歌していたようです。
大学デビュー成功?草野球サークルで彼女ゲット
赤木さんは大学で自ら草野球サークルを立ち上げ、「見事な大学デビュー」を果たしました。
立ち上げたサークルの名前は「ディボーションズ」。
そこで赤木さんは「四番・キャプテン」を務め、文字通り中心人物として活躍していました。
さらに、サークルにはマネージャーを置き、なんとそのマネージャーと交際までしていたというから驚きです。
ご本人曰く、居心地の良い「お山の大将」的なポジションで、大学生活を全力で楽しんでいたそうですよ。
高校時代の「戦力外通告」の悔しさを、大学のサークル活動で見事に晴らした形ですね。



しかし、楽しい大学生活の終わりとともに、厳しい現実が待ち受けていました。
就活失敗とNSC授業での評価4点が転機に
就職活動での挫折と、NSCでの低評価が、芸人としての覚悟を決めるきっかけとなりました。
就活時期、アルバイト先で「全然仕事ができない」「手際が悪い」と怒られ続けた赤木さん。
「自分は就職しても成功しない」と悟り、一発逆転を狙ってNSCへの入学を決意します。
ところが、自信を持って飛び込んだお笑いの世界でも、洗礼を浴びることになります。
NSC在学中の「一人喋り」の授業での点数は、なんと100点満点中わずか「4点」。
赤木:僕は木村さんが1位を獲った一人喋りの授業、ずっと100点満点中4点やったんです。きっと講師の方にハマってなかったんもあるんかなと…。で、もちろん分かっていましたけど、厳しい世界やなと改めて洗礼を受けた感じでした。
引用元:月間芸人
「厳しい世界やな」と改めて痛感したそうですが、そこから腐らずに立ち上がったからこそ、今の活躍があるわけですね。
ちなみに、現在の相方であるきむらバンドさんと組む前は、「あぶりぽンズ」「ムミムシュウ」というコンビを組んでいましたが、いずれも解散しています。



それでは最後に、赤木さんのこれまでの経歴を時系列で振り返っていきましょう。
たくろう赤木裕の経歴:結成から賞レースでの活躍まで
たくろう赤木裕の生い立ちから現在までの時系列年表
赤木裕さんの誕生から現在までの歩みを、時系列で表にまとめました。
| 年 | 出来事 |
| 1991年 | 10月24日、滋賀県大津市にて誕生 |
| 小学生 | 野洲小学校から平野小学校へ転校。この頃からゲームに熱中 |
| 中学生 | 大津市立打出中学校に入学。野球部に所属し、自宅が「遊園地」化する |
| 高校生 | 光泉高等学校に進学。野球部で戦力外通告を受けマネージャーに転向 |
| 大学生 | 京都産業大学に入学。草野球サークルを立ち上げ代表を務める |
| 2014年 | 大学卒業後、NSC大阪校に37期生として入学 |
| 2016年 | 3月9日、NSCの先輩であるきむらバンドとコンビ「たくろう」を結成 8月、結成わずか5ヶ月で「Kakeru翔GP」優勝 |
| 2018年 | 第39回ABCお笑いグランプリ 決勝進出 M-1グランプリ2018 準決勝進出 |
| 2019年 | 第8回ytv漫才新人賞決定戦 準優勝 |
| 2023年 | R-1グランプリ2023 準決勝進出(赤木ピン) |
| 2024年 | 第54回NHK上方漫才コンテスト 準優勝 |
学生時代の挫折をバネに、芸人になってからは着実に結果を残していることがわかりますね。



特に、コンビ結成からのスピード感は目を見張るものがあります。
スピード出世!コンビ結成から主な受賞歴のまとめ
「たくろう」は結成直後から賞レースで頭角を現し、関西の若手漫才師として確固たる地位を築いています。
特筆すべきは、結成からわずか5ヶ月で吉本興業の若手ライブバトル「Kakeru翔GP」で優勝を果たしたことでしょう。
NSCでの評価が4点だった赤木さんが、先輩であるきむらバンドさんと組むことで、その独特なキャラクターと才能を一気に開花させました。
その後もM-1グランプリで準決勝に進出し、敗者復活戦で全国ネットに登場した際は、その挙動不審なキャラクターとおしゃれな衣装のギャップで大きな話題を呼びました。
ytv漫才新人賞やNHK上方漫才コンテストでも準優勝を果たしており、タイトル獲得まであと一歩のところまで来ています。



「一発逆転」を誓った赤木さんの快進撃は、これからもまだまだ続きそうですね。


【M-1 2025】決勝・準決勝進出者の実家・地元まとめ
実家が太いのは誰?親の職業は? 今年の決勝・準決勝進出者たちの「意外なルーツ」と「実家・家族」を徹底調査しました! ぜひチェックしてみてくださいね。










コメント