独特なハイトーンボイスと昭和歌謡ネタで注目を集めるタブレット純さん。
その不思議なキャラクターが育まれた実家はどこにあるのか、どんなご家族なのか気になりますよね。
先に結論から言えば、タブレット純さんの実家は神奈川県相模原市の津久井エリアにあります。
お父様は建築関係のお仕事をされていて、純さんは3兄弟の末っ子として可愛がられて育ったそうですよ。
テレビでは語られないご両親の素顔や、高校卒業後の意外なアルバイト経験など、知られざるエピソードもたくさんあります。
ゆかりこの記事を読めば、タブレット純さんのルーツや家族との温かい関係が分かりますよ。
この記事を読むと分かること
- 実家の場所が相模原市津久井である理由
- 建築関係の父と天然な母のエピソード
- 3兄弟の末っ子としての家族構成
- 出身小学校や高校卒業後の経歴
実家は相模原市緑区の旧津久井町エリア
タブレット純さんは、昭和の香りが漂う独特なキャラクターが魅力ですよね。
そんな純さんが生まれ育った場所は、神奈川県の自然豊かなエリアなんです。



ここでは、ご本人が語る「昭和がそのまま残ったような」実家の場所や、驚きの田舎エピソードについて詳しくご紹介していきます。
実家の場所は津久井湖を見下ろす高台にある
タブレット純さんのご実家は、神奈川県相模原市緑区の旧・津久井町エリアにあります。
ご本人いわく、「横浜市の水がめ、津久井湖を見下ろす高台」で生まれ育ったそうですよ。
出身小学校が「相模原市立中野小学校」であることからも、ご実家はこの学区内であることは間違いありません。
この地域について純さんは、「優しい緑の天然を併せ持った街」と表現されています。
かつてあった駅の延伸計画がなくなったことで、かえって街並みが変わらず「四十数年醸成されて昭和が残った」と語っており、今の地元が大好きなんだとか。
都会の喧騒を離れた、穏やかな場所で幼少期を過ごされたんですね。



次は、そんな自然豊かな実家周辺の、ちょっと驚くようなエピソードを見ていきましょう。
両親がイノシシや猿の出現を警告するほどの田舎暮らし
実家の周辺は、現在でも見事なほどの「田舎」なんだそうです。
以前、純さんが実家に帰省して夜の散歩に出かけようとしたときのエピソードがあります。
お母様から真顔で「イノシシに襲われるからやめとけ」「猿もおっかないよ」と忠告されたそうなんですよ。
夜、散歩に行こうとすると、父と母に「イノシシに襲われるからやめとけ」「猿もおっかないよ」と真顔で言われました。(^^;)実家近辺は見事な「田舎」に醸成されました…。
引用元:タブレット純の世界
ご両親がそこまで警戒するのですから、野生動物との距離が相当近い環境であることがうかがえますね。
相模原市といっても広いですが、純さんのご実家あたりは自然の力がまだまだ強いエリアのようです。
さて、そんな自然の中で暮らしていた純さん一家ですが、昔はどんなお家に住んでいたのでしょうか。



次は、ご実家の建物にまつわるエピソードをご紹介しますね。
もともとは「バラックのような掘立小屋」に住んでいた
実は純さんのご実家は、最初から立派な家だったわけではないようです。
ご本人の言葉を借りると、もともとは「バラックのような掘立小屋」での暮らしだったといいます。
その後、お引っ越しをされたのですが、その際には庭がなくなってしまったという悲しい出来事もありました。
そのせいで、当時飼っていた愛犬の「ムク」を手放さなければならなかったという、切ない思い出も残っているんです。
お父様が建築関係のお仕事を独立して手がけられていたこともあり、住まいにはご家族の歴史が詰まっているのかもしれませんね。



続いては、そんな実家で育った純さんのご兄弟や家族構成について詳しく見ていきますね。
タブレット純の家族構成は3兄弟の末っ子
タブレット純さんは、どんなご家族の中で育ったのでしょうか。
実は男3人兄弟の末っ子として、お兄さんたちに可愛がられていたそうなんです。



ここでは、賑やかな3兄弟のエピソードや、ちょっと笑ってしまうような家族の思い出について掘り下げていきますね。
5人家族で2人の兄に可愛がられて育った三男坊
タブレット純さんは、ご両親とお兄さんが2人の5人家族で育ちました。
3人兄弟の三男で、一番上のお兄さんは昭和45年生まれ、次男のお兄さんは昭和46年生まれだそうです。
純さんは昭和49年生まれなので、少しだけ歳が離れていたんですね。
上の2人のお兄さんはしょっちゅうケンカをしていたそうですが、純さんに対してはとても優しかったといいます。
ご本人いわく、純さんが「男っぽくない」子供だったこともあり、兄たちからは可愛がってもらっていたように思う、と振り返っています。
末っ子特有の愛されキャラで、ご家族の中で温かく見守られていた様子が目に浮かびますね。



次は、そんな優しいお兄さんが、ある時純さんを尾行したという意外なエピソードをご紹介します。
中古レコード屋に行くのを兄に尾行された少年時代
中学生の頃、一番上のお兄さんに尾行されて捕まったことがあるそうです。
当時、純さんは家族に内緒で、町田や八王子にある中古レコード屋に通っていました。
中学生がこっそり出かける様子を不審に思ったのか、お兄さんが後ろをつけてきたことがあったんだとか。
日曜日の朝、地元唯一のスーパーだった「忠実屋」(現・ダイエー)に行くと言って出かけて、実はバスで橋本駅に出て八王子や町田の中古レコード屋に。買えなくても見に行くだけで楽しかった。
でも、親に怪しまれて上の兄に尾行されまして。八王子で兄が姿を現して、ついに尻尾をつかんだぞ! と言わんばかりに「何やってんだ」って(笑)。
引用元:さんたつ
結局、八王子で捕まってしまったそうですが、弟の行動が心配だったのかもしれませんね。
この頃からすでに昭和歌謡への情熱がすごく、お兄さんにとっても不思議な弟に見えていたのかもしれません。



さて、兄弟のエピソードに続いては、ご両親の結婚式にまつわる「ある衝撃的な事件」についてお話ししますね。
両親の結婚写真はカメラマンのミスで一枚も残っていない
実は、純さんのご両親の結婚式の写真は、一枚も残っていないという伝説があるんです。
ご両親は府中市の大国魂(おおくにたま)神社の式場で結婚式を挙げられました。
立派な式場だったはずなのですが、なんと当日のカメラマンがカメラにフィルムを入れ忘れてしまったそうなんですよ。
ここ大国魂神社の式場は、父と母が結婚式をあげた場所だそうです。しかしカメラマン役をした人がフィルムを入れ忘れたかなにかで写真が一枚も残っていないのだとか…。橋本家らしい。
引用元:タブレット純の世界
そのせいで、晴れ姿の記録が一切ないという、まさに「幻の結婚式」になってしまったんです。
ご本人もブログでこのエピソードを明かしていますが、今となっては家族の笑い話になっているのかもしれませんね。



続いては、そんなちょっとおっちょこちょいなエピソードを持つご両親の人柄について、さらに詳しく見ていきますね。
父親は建築関係の仕事で母親は天然な一面も
タブレット純さんのご両親は、それぞれ個性的で素敵な方々のようです。
お父様は建築関係のお仕事をされていましたが、家ではちょっと変わった存在感だったとか。



ここでは、純さんが「おぼろな人」と呼ぶお父様や、優しく見守ってくれたお母様とのエピソードをご紹介します。
建築業の父は「おぼろな人」で家庭では存在感が薄かった
純さんのお父様は、祖父が創業した会社から独立する形で、建築関係のお仕事をされていました。
しかし、家庭内でのキャラクターは非常にユニークで、純さんはお父様のことを「おぼろな人」と表現しています。
日曜日はももひき姿でゴロゴロと昼寝をし、おならだけで存在感を示していた、なんていうユーモラスな思い出もあるそうです。
また、純さんの成績には無関心で、どんな子供だったか尋ねられても「ちょっと記憶にない」と答えてしまったんだとか。
純さんはこれを「親子間ロッキード事件」と呼んでいるそうですが、そんなつかず離れずの距離感が、かえって心地よかったのかもしれませんね。



次は、そんなお父様の意外なこだわりや、純さんのカミングアウトに対する反応について見ていきましょう。
巨人アンチの父はセクシャルマイノリティのカミングアウトも受け入れた
お父様は、野球中継で巨人が優勢になるとすぐにチャンネルを変えてしまう、筋金入りの「アンチ巨人」でした。
また、なぜか「おかめの踊り」にこだわりがあり、近所の子供に教えることもあったという、不思議な一面もお持ちです。
そんなお父様ですが、2014年のテレビ番組内で、純さんがセクシャルマイノリティであることをカミングアウトした際、その告白をしっかりと受け止められました。
多くを語らないお父様ですが、純さんのおじ様やおば様も芸事に関わっていたそうで、純さんの進む道を静かに理解してくれていたのかもしれません。



続いては、そんなお父様と共に純さんを育てた、お母様についてのエピソードをご紹介しますね。
母親はマヒナスターズに加入する際も反対せず温かく見守った
お母様もまた、純さんの人生を優しく肯定してくれる温かい存在でした。
純さんが「和田弘とマヒナスターズ」に加入することになった際、ご両親は一切反対することなく送り出してくれたそうです。
当時、純さんが少し行き詰まっていた時期でもあったため、「好きにやってみなさい」という親心だったのかもしれませんね。
夜の散歩に行こうとすると「イノシシが出るからやめなさい」と真顔で止めるような天然な一面もありますが、純さんのことを常に気にかけていることが伝わってきます。
ご両親の深い愛情があったからこそ、今のタブレット純さんの独特な世界観が育まれたのでしょう。



次は、そんなご家族と過ごした地元での学校生活や、高校卒業後の意外なアルバイト時代についてお話ししていきますね。
出身小学校や高校卒業後の意外な経歴
ここまではご家族についてご紹介してきましたが、タブレット純さんご自身の学生時代も気になりますよね。
「昭和歌謡」という独自のジャンルを突き詰めてきた純さんですが、その原点はやはり地元の学校生活にあったようです。



最後は、出身校での思い出や、芸人になる前に長く勤めていた意外なアルバイト先について深掘りしていきます。
出身小学校は相模原市立中野小学校で校歌も歌える
純さんの出身小学校は、地元にある「相模原市立中野小学校」です。
ご本人は今でもこの小学校の校歌を歌えるほど、当時の記憶が鮮明に残っているそうですよ。
通学路だった中野商店街には、昔ながらの本屋さんなど古い商店が残っていて、その雰囲気が大好きだったといいます。
また、小学生時代には「奈良井児童遊園」の隣にある自治会館で開かれていたそろばん塾にも通っていました。
昭和の風情が残る商店街やそろばん塾といった環境が、純さんの懐かしいもの好きな感性を育んでいったのかもしれませんね。



次は、少し辛い経験もされたという、中学校時代のエピソードについてお話しします。
昭和歌謡好きでいじめられた中学時代と文通での救い
中学生になると、周囲とは違う趣味を持っていたことで苦労された時期もあったようです。
当時から古い歌謡曲や中古レコードに夢中だった純さんは、その変わった趣味が原因でいじめを受けていました。
「日々どうやっていじめを潜り抜けるか」を考えて過ごすほど、孤独な青春時代だったと語っています。
中学になると人とは違う変わった趣味にハマっているという理由で、いじめられたんです。どんどん後ろ向きで暗い青春になっていきました。とにかく毎日、どうやっていじめを潜り抜けるかという状況だったので、バンドなんてやっている人は雲の上の存在みたいな感じでした。
引用元:CAHNTOWEB
そんな中で心の支えになったのが、やはり昭和歌謡でした。
なんと年齢を「50代」と偽って、GS(グループサウンズ)研究家の方と文通をしていたそうなんですよ。
好きな音楽に没頭し、文通という形で外の世界と繋がることで、辛い時期を乗り越える「命綱」にしていたんですね。



続いては、高校を卒業した後、芸能界に入るまでの意外な下積み時代について見ていきましょう。
高校卒業後は古本屋で8年間アルバイトをしていた
高校卒業後、純さんはすぐに芸能活動を始めたわけではなく、ある古本屋で8年間もアルバイトをしていました。
そのお店はあまり流行っておらず、時給は630円だったそうです。
実はその古本屋、表向きは普通の古本屋でしたが、裏では違法な商品を扱って利益を出しているような、ちょっと怪しいお店だったとか。
純さんはあくまで店番として働いていたそうですが、なんともディープな世界を若くして経験されていたんですね。



そうしたアングラな場所での経験も、現在の独特な芸風やトークの引き出しになっているのかもしれません。
タブレット純の実家まとめ!相模原の自然と家族愛が育んだ個性
タブレット純さんの独特な世界観は、相模原の自然豊かな実家と、個性的なご家族の影響が大きかったようですね。
建築業のお父様や天然なお母様、そして優しいお兄さんたちとのエピソードからは、昭和の温かい家族の風景が浮かんできます。
この記事のポイントをまとめます。
- 実家は相模原市緑区の旧津久井町エリア
- 父は建築関係の仕事で「おぼろな人」
- 母は天然でイノシシや猿の出現を警戒
- 3兄弟の末っ子として兄たちに愛された
- 中野小学校出身で校歌も歌える
- 高校卒業後は古本屋で8年間バイト
- 家族全員が純さんの活動を温かく応援
決して派手な生活ではなかったようですが、バラック小屋から始まったご実家の歴史には、家族の絆がしっかりと刻まれていました。
辛い時期を支えた昭和歌謡と、それを認めてくれたご家族の存在があったからこそ、今のタブレット純さんがあるのでしょう。



これからもその不思議な魅力で、多くの人を笑顔にしてほしいですね。










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